『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

 「本当の私はひとつ」、「個人という最小単位」という幻想がなかったら・・・。

 今日、読みながら「エウレーカ!」と内心で叫んでしまいました。

平野啓一郎さんの本。 " _mce_href="nullnull" target=_blank>『私とは何か 「個人」から「分人へ」』

 

やっとポウル・アトレイデ(『デューン砂漠の救世主』)と、ヨーゼフ・クネヒト(『ガラス球演戯』)の死に方に納得できたよ。

 二人とも本来の自分を見出した後、あっけなく死んでいく。高校時代にどうしてもそれを納得することができなくて、ウン十年考えていたわけですが・・・…そうか。

 わたしが、「本当の自分」はひとつという幻想に捕らわれていたから、そうでない部分を認められなかったんだ。

 

 あの頃はトータルに理想の人物に見えたけど、今思うと、ポウルは、他者への愛という名目で自分への不安に蓋をする女性的な要素を持っているし、クネヒトは、任せておけと言いながら、いざというと役に立たない男性的な要素を持っている。真実の姿はこれ、という思い込みを外したら、彼らが別の面を現わしても、そうだねぇ、そんな面もあるよね、人間だもの、とすんなり納得。

 

 人間の最小単位は個人じゃないよね、と平野さんは書く。

 個人(individual=in(不可能)divide(分ける))というけれど、個人は本質的にdividual(分けられる)。さまざまな局面や、相手によって、いろんな面が出てくる。それはどれも仮面ではなくて本当の姿。本当の姿はたくさんあって当たり前。だから、これだけが自分だと思い込むのは止めようよ・・・。

 でもね、それぞれの姿は他者との係わり合いの中で出てくる。その意味で、個人は他者との関係性の中でindividualな存在だ。たとえば死者とのかかわりにおいて、その人との間で生まれた自分の一面がある以上、その人と自分の間には、分かちようがない絆がある。

 「自分探し」の価値は、そこに唯一の自分を見出すことじゃなくて、新しい自分の可能性を生み出すこと。「ひきこもり」は不快な関係性に生まれた自分の要素を捨てて別の要素を大事にすること。だけど捨てたところに「本当の自分」を見ていると、苦しくなる・・・。

 

 これは『なめらかな社会とその敵』にも通じる揺らぎ観だなあ。

 「これが本物!」というdoingじゃなく、緩やかな結びつきのbeingにフラットな意味を見出そう。

 

 今日は『八日目の蝉』も読了。

 愛してくれた相手が誘拐犯だった、戻った家族と上手くいかなかった、それを本当の愛はどちら、という視点で見つめると、誘拐犯だった育ての親を悪にするしかない。

 けれども誘拐犯にも、肉親にも両方にそれぞれの形の愛がある・・・・・・その気付きと『私とは何か』が呼応していて、二重に美味しい1日。